日本語のもと「五十音」を店名に
銀座には、文房具探しのための散策ルートというのがある。
明治創業の老舗の「伊東屋」、与謝野鉄幹・晶子夫妻が名付け親の「月光荘画材店」、新規参入の「東急ハンズ銀座店」、こだわりの文具をそろえたプランタン銀座の「スコス」……そして、銀座4丁目の路地裏にある小さな店「五十音(ごじゅうおん)」である。
並木通りの宝飾店「天賞堂」のシンボル、キューピッド像にうながされるようして、路地裏へと進んでいくと、宝童稲荷の赤い鳥居の真ん前に、「五十音」の看板がちらりと見える。
6年ほど前にオープンしたこの店の若き女性オーナー、宇井野京子さんが注目したのは、ボールペンと鉛筆。
「書き言葉で五十音は、基本ですよね。言葉もきれいですし、面白いかなと思って名付けました。ときどき『いそねって読むのですか?』なんて、質問も受けますけれど」と、店名の由来を教えてくれた。
直感的に使える道具の面白さ
文房具愛好家というよりも道具フェチになったのは、子どものころ、黒いメタリックのカランダッシュのフィックスペンを両親からプレゼントされたのがきっかけ。
ボディには万年カレンダーが刻まれていて、ユニークな7面体だった。子どもには不似合いなクールな外観が気に入り、何か大切なことを書くときしか使わなかった。それでも、芯は丸くなる。けれども、芯の削り方がわからない。
ある日のこと、だれに教わるともなく、突然ピンとひらめいた。「ノック部をはずした内部に芯を削る部分を発見して、実に美しく削ることができまして。その瞬間、もう道具って、スゴイ、スゴイ、道具ラブ! と叫びそうになりましたっけ」
宝童稲荷のご利益?
デジタルの時代――とはいえ、「私が生きている間は、文字を書く人たちがまだまだ残っているはず。時代に逆行するアイテムや流行の中で生き残れなかったモノたちの安息の地があってもいいのでは……」との心意気から、店を開くことに。
学校の前にある文房具屋さんのように、何かのついでに自然と立ち寄ってもらえる感じにしたいと、駅やデパートに近いといった条件で物件を探した。
銀座以外の繁華街でも随分探して、かなり難航していたのだが、ある夜、銀座の路地裏の物件がパソコンでヒット。翌日内見し、個人の大家さんだったことも幸いして、すんなり契約ができてしまった。
「内見した帰り、店の向かいの宝童稲荷に、ここでオープンできますようにって願をかけたら、本当に思い通りになっちゃった。キツネにつままれたような気持ちでした」
「五十音」があるあたりは、その昔、弥左衛門町と呼ばれていた。明治35年ごろの地図をみると、現在の電通、味の素をはじめ、第一徴兵保険(のちの東邦生命)、黒沢タイプライター、諸星インキなどの創業の地として印されている。「成功を収めた起業家の登竜門」の場にお稲荷さんが鎮座されているというのは、意味のあることなのだろう。
不思議な「ペンの神様」
不思議なことはほかにもあった。
まだ店舗という基地がなかったころ、多くの業者が剣もほろろだった中で、単身ニューヨークに乗り込んで行った宇井野さんの話にしっかり耳を傾けてくれたアメリカ人のペンデザイナーがいた。その彼は、商品を卸してくれただけでなく、6本の手を持つ不思議なペンホルダーを贈ってくれた。
「それを持って帰国した直後に、銀座の物件は決まるわ、吸い寄せられるようにして商品は集まってくるわで……。私は『ペンの神様』だと思っています」
オープン当初はとにかくできるだけの種類をそろえなければと焦りに似た衝動にかられたこともあったが、結局、「自分が気に入ったものだけを置く」というコンセプトに落ち着いた。
「専門店というよりも、ボールペンや鉛筆を偏愛している偏売店、ですね」
鉛筆文化を支えたい
3坪の店には、65円の鉛筆から65万円のエナメル細工のペンまで、様々な文房具がおもちゃ箱を引っくり返したかのようにところ狭しと並ぶ。革の鉛筆キャップや木の補助軸、セルロイドの筆箱など、なんとも懐かしい商品もある。
日本人ならば、だれもが手にしたことのある鉛筆……。これほど自分の感情を上手に、しかも手軽に表現できる道具はほかにないだろう。
「鉛筆製造は東京の地場産業の一つ。でも、下町の鉛筆工場が次々と姿を消していくことは、時代の流れとはいえ、ちょっと寂しい気がします」
ご近所の老舗の主たちが、まるで娘の面倒をみるかのように、飛んで来て様々な相談にのってくれるのも、「街を愛し、人を愛し、そして義理人情に厚い銀座ならでは」と強調する。
鉛筆文化を微力ながら支えつつ、小さな店だからこそできる銀座への恩返しは何だろう……宇井野さんはそう考えながら、日々仕事をしているという。
(プランタン銀座取締役・永峰好美)