シンボルロードに柳並木が復活
今年92歳になる西銀座デパート会長の柳澤政一さんが、「私の銀座物語」(中央公論事業出版)という本を上梓した。
証券マンを振り出しに、銀座にかかわって半世紀以上。副題に「柳澤政一が語る 銀座四〇〇年」とある。江戸時代から文明開化、大正モダン、関東大震災からの復興と戦争の時代、さらに高度成長期から海外ブランドが進出する新しい銀座へと、「銀座の生き字引」とも呼ばれる著者が、文献にあたり、かつ自らの体験を思い起こしながらつづった「銀座の文化・風俗通史」に仕上がっている。
柳澤さんに初めてお目にかかったのは、4年前の春だった。久々に復活した「銀座柳まつり」の立役者として話を聞かせていただいた。
「昔恋しい銀座の柳」と、西条八十作詞の「東京行進曲」で歌われたのは、昭和の初め。2006年の春、西銀座通りに数十年ぶりに柳並木が復活した。1丁目から8丁目までの約1キロに約200本の柳を植える8年がかりの事業が完成、「銀座柳まつり」もよみがえったのであった。
時の移り変わりの中で、銀座の柳は受難続きだった。
明治初期、煉瓦街になった銀座では、水分の多い土壌ゆえ、松や桜、カエデの街路樹が根腐れで枯れた。代わって植えられたのが、水に強い柳。ところが、車道の拡張や東京大空襲での焼失などで、だんだんと姿を消す。
商店主らが補植を試みてきたが、1968年の銀座通り大改修事業で、ほとんどの柳が撤去されてしまった。
「子ども心に歌で聞いて育った銀座の柳がどこにもなかったのは寂しい。大学が神田で、柳の下の銀ブラ・デートとしゃれこんだ楽しい思い出もあるしね」。西銀座通会会長として、通り沿いの商店経営者らを束ねた柳澤さんは、柳並木の復活を心から喜んでいた。そして、「柳は、狭い場所にあるとうっとうしいけれど、広々として昔の風情が残る銀座だから、いいんだねえ。銀座ほど柳が似合うところって、ないんじゃないかい」とも。
お話をうかがいながら、この人は心底銀座を愛しているのだなあ、と感じたものだ。
さて、「私の銀座物語」には、柳澤さんが「銀座のために」と尽力したいくつかのエピソードがつづられている。
タウン誌「銀座百点」の始まり
証券会社の銀座支店長を命じられた1954年夏のこと。「銀座で商売をしている人に実際に仕事を依頼することから始めよう」と、店のオープニングレセプションでは、決まっていた大手ホテルをわざわざキャンセルして、当時「街のレストラン」に過ぎなかった三笠会館に仕切りをお願いした。
以来、同社の谷善之丞社長は「銀座における戦友のような存在」だそうで、その縁から、コックドールの伊藤佐太郎氏、天一の矢吹勇雄氏ら、銀座に対する一方ならぬ情熱をもった人々との交流を深めていった。
「地域社会への貢献を」と、当時4丁目にあった支店の会議室を銀座の商店主の情報交換の場として開放したところ、12人のメンバーを核に親睦団体ができた。会員を募集すると、予想以上の反応があって、すぐに70店舗が応募。「それなら百店にしようか」となったら、これもすぐに集まった。名称を「銀座百店会」とし、思い切って銀座のためのPR誌を作ることへと発展していく。
知り合いを頼って銀座5丁目にあった文藝春秋を訪ねると、専務だった車谷弘氏が編集を担当してくれることに。1955年1月の創刊号から、久保田万太郎、源氏鶏太、吉屋信子らの一流の執筆陣が集まり、「さすがは銀座」とだれもがうなるようなタウン誌「銀座百点」が完成したのだった。
その後も谷崎潤一郎や三島由紀夫ら日本を代表する作家や文化人が執筆、その伝統は受け継がれ、この4月号でも、赤川次郎、池部良、村松友視らが健筆を振るう。
ちなみに、表紙の写真を担当したことのある秋山庄太郎氏は、柳澤さんの写真の師でもあり、「先生の指導で、3冊の花の写真集を出版することができました」。
「百店会創設メンバーの12人のうち、私を除くほかの11人の方々はすでに鬼籍に入っておられる。高度成長期を突っ走った創業者の心意気を若い方々に伝えるのも私の役目。変化する銀座の中にあって、できるだけ頑張っていきたいものです」。思い出の三笠会館で開かれた出版記念会で、柳澤さんは力強く語った。
(プランタン銀座取締役・永峰好美)
◇銀座百点