ペコポコとふれあうミュージアム
8階でエレベーターを降りると、会場は、携帯電話で写メを撮る人たちであふれていた。それも、40代以上の女性の姿が目立つ。
「うーん、懐かしいわあ」
「沖縄から来たかいがあったわねえ」
子ども時代に戻ってはしゃぐ声が、あちらこちらから聞こえてくる。
8月24日、東京・銀座6丁目の不二家銀座ビルに期間限定でオープンした「銀座ペコちゃんミュージアム」(9月6日まで、入場無料)。
来年2010年に創業100周年を迎える同社の記念イベントで、人気キャラクター「ペコちゃん」のカワイイ世界が展開されているのだ。
歴代ペコちゃん勢ぞろい
銀座の地は、同社にとって縁のある場所である。旧本社ビルが置かれていたというだけではない。
横浜・元町で洋菓子店をスタートさせた創業者、藤井林右衛門氏が、シュークリームやショートケーキで評判になった伊勢佐木町店に続いて、1923年(大正12年)に開店したのが銀座6丁目店。関東大震災で焼失したものの、翌24年にはバラック建てで再開した。
戦後の1953年(昭和28年)、銀座の数寄屋橋交差点角に数寄屋橋店がオープン。ネオンきらめく広告大看板は、銀座名物にもなった。
「ペコちゃん」が店頭人形としてデビューしたのは、その少し前の1950年(昭和25年)。第1号は、日劇の舞台を手がけた大道具さんによって作られた紙製の「張子のペコちゃん」だったそうだ。
となると、「ペコちゃん」は来年還暦を迎えるわけか……と感慨深く一人つぶやいていたところ、たまたま隣りにいた上品そうなご婦人が「あらやだ、永遠の6歳ですわよ」と教えてくれた。
「ペコちゃん」のプロフィールを改めて読んでみると、なるほど、「お菓子が好きな女の子、永遠の6歳」とあった。
1958年12月に行われた、車が当たる懸賞公募キャンペーン「ペコちゃんはいくつ?」に寄せられた回答から決定した。
身長100センチ、体重15キロ、明るく元気で、チャームポイントはほっぺに出している舌。名前の由来は、子牛の愛称「べこ」を西洋風にアレンジしたものだ。
ちなみに、ペコちゃんが困っている時にはいつも力になってくれるボーイフレンドの「ポコちゃん」は、永遠の7歳。幼児を表す古語の「ぼこ」をやはり西洋風にアレンジしたという。
会場には、ポコちゃんとペアでそろう電動人形のほか、ネット販売限定の手づくりのビスクドールなど、1960年代から現在に至るまでの貴重な歴代ペコちゃんが百点以上並んでいる。
私が子ども時代に活躍していたのは、オレンジ色のサロペットパンツのポケットに両手を突っ込んで、ちょっとボーイッシュに振る舞っていたペコちゃんだ。
懐かしい思い出の味よみがえる
トリコロールカラーのパッケージが海外への憧れを誘った「フランスキャラメル」、バレンタインデーに赤いリボンを結んで渡した甘酸っぱい記憶の残る「ハートチョコレート」、練乳のおいしさを教えてくれた「ミルキー」、遠足のお供にはずせなかった「パラソルチョコ」や「ペンシルチョコ」、チョコレートのほろ苦さを初めて知った「青箱のメロディ」……。
思い出の商品を挙げてみると、もうキリがない。
バニラとストロベリーの2色ソフトクリームをコーンカップで初めて食べたのも、銀座の不二家の店頭だった。
クリスマスになると、丸の内に勤める商社マンの父親が銀座に寄って、砂糖細工のサンタクロースが載った、バタークリームたっぷりのデコレーションケーキを買って来てくれた。
会場に展示された年表をチェックしてみたら、日本にクリスマスのデコレーションケーキを広めたのも同社だった。
創業した明治時代から作っていて、当初は、プラムケーキに、砂糖と水アメを混ぜた粘土性のホンダンクリームを塗り、銀球で飾ったシンプルなものだったようだ。大正時代にバタークリームをはさんだスポンジケーキが登場し、戦後の1950年代、急速に日本の家庭の人気者になった。
来場者には子ども連れも少なくなかったが、「ペコちゃん」に夢中になっているのは、どちらかといえばお母さんの方?
7階の会場には、メッセージボードも設けられ、「ペコちゃん、かわいい!」「これからも応援しているよ!」など、熱い言葉が書き込まれていた。
消費期限切れの原料の使用が発覚、管理のずさんさが浮き彫りになって、店頭から商品撤去の動きが広まったあの事件から、約2年半。一時は商品とともに姿を消したペコちゃんも、最近は復活し、そして、相変わらずの人気ぶりだ。
「いやあ、こんなに励ましのメッセージがいただけるなんて、ほんと感激です。背筋がぴんと伸びます」と、同社のスタッフがぽつりと言った。
銀座・数寄屋橋店ではいま、デコ師(デコレーションアートの専門家)が衣装デザインしたキラキラペコちゃんが微笑んでいる。
永遠の6歳の活躍の場は、ますます広がるのかもしれない。
(プランタン銀座取締役・永峰好美)