京橋骨董通りの大雅芸術店が話題に
北大路魯山人といえば、陶芸をはじめ、絵画、書、
1883年(明治16年)、京都に生まれた魯山人だが、東京・銀座とは縁が深い。青葉がまぶしい季節。銀ブラのヒントに、ゆかりの地をいくつかご紹介したいと思う。
魯山人は、尋常小学校入学と同時に木版師の養家に入った。卒業後は当時流行の西洋看板書きで生計を助けた。20歳のころ上京し、書家の岡本
そうしたファンには、加賀の山代の旅館主たちがいて、30代になったばかりの魯山人を快く食客として受け入れた。九谷焼の器に盛られた日本海の幸にいたく感激した彼は、ある日、九谷焼の窯元、須田
研鑽を積んだ魯山人は1919年(大正8年)、友人の中村竹四郎と共同で、東京市京橋区に「大雅芸術店(のちに大雅美術店」に改称)」を開店した。現在小さなギャラリーが集まる京橋骨董通りにある「加島美術」の場所。赤茶色の壁が美しい店である。
店には古美術や骨董を並べ、来客には手料理を提供して話題になった。2階には会員制割烹の「美食倶楽部」を設け、店頭商品の古陶器に自ら料理を盛り付けるなどしてかなりの人気を博したらしい。だが、関東大震災で焼失。2年後場所を赤坂の日枝神社近くに移して、「星岡茶寮」を開業する。卓抜な演出で、政財界の粋人が集う文化サロンになった。料理と器、絵画、書。さらに、北鎌倉に築窯し、陶器を焼くようになった。しかし、36年(昭和11年)、共同経営者とのもめごとから追放され、鎌倉に引っ込むことに。
ちょうどそのころ銀座で創業した黒田
時は下り、戦後まもない46年、銀座5丁目のあづま通り沿いに、自作を置く工芸処「火土火土美房」を開く。現在は、和菓子の銀座清月堂をルーツとするレストランが、ギャラリーを開いている。
その当時の魯山人について、女優の山口淑子さんからうかがったことがある。戦後、日本の映画女優としてアメリカを訪問、日系二世の彫刻家、イサム・ノグチさんと恋に落ちた山口さんは、帰国後、魯山人の鎌倉の離れを借りて新婚生活をスタートさせた。「二人の芸術家を身近に見て、美意識に合わないものは存在すら許さないという厳しいたたずまいに圧倒される思いでした。私は、彼らの世界を理解しようと必死でしたね」との言葉が印象的だった。
先代「久兵衛」の話には耳を傾けた
銀座8丁目・金春通りのすしの名店「銀座久兵衛」の先代、今田壽治氏との付き合いが始まったのは、魯山人70歳のころからという。傍若無人、孤高の人、ときに傲慢、不遜などと形容され、堅物のイメージが強い魯山人も、先代の話には耳を傾けたらしい。
有名な話がある。「マグロは、もっとぶ厚く豪勢に切ってくれ」と頼んだ魯山人に、先代は「握りずしってのは、タネとメシのバランスだ」と、たんかを切って返した。その職人の心意気が気に入ったらしく、それからたびたび久兵衛に立ち寄り、京都や松山などへ一緒に旅する仲になったという。
二代目の今田洋輔さんは、当時小学5年生くらい。「僕にとっては好々爺という感じでした。魯山人さんは、毎日ワイシャツのカラーを取り替えるので、それを見ていた僕が新しいカラーを付けて渡したら、よく気がきく子だねと、ほめてくださった」
窯出しのたびに作品を持参してくれて、一時店の器が全部魯山人作になったという。その縁にちなんで、店内には作品を集めたギャラリーが併設されている。
先日、その魯山人作の器で、すしをいただく機会があった。しょうゆ皿やまな板皿、そして湯呑まで、我を主張しすぎず、料理を引き立てるように実用的かつ使いやすく作られている。
「用あるものはことごとくその用を使い果たすところに天然の妙味がある」という言葉を、評伝の一つ、山田和さんの「知られざる魯山人」(文藝春秋)で知った。
日常生活で使われてこそ、美は輝く。ゆかりの場所を訪ねながら、粋人の美学に思いをはせた。
(プランタン銀座取締役・永峰好美)